ブログ ミラノ・プリミパッシ
Date: 2011/10/09 - 07:24:34

<ヴェネチア・ラグーナの島巡り>

2011 oct pic2.jpgヴェネチア国際映画祭の開始当日、私たちはヴェネチアにいました。「ジョージ・クルーニーがヴェネチア入り」「マドンナが問題発言」など、街が華々しく祝祭気分に湧いている中、私たちは喧騒を離れてラグーナの島を巡ることにしました。ラグーナとは「潟」のこと。世界遺産たるヴェネチアには、アドリア海のラグーナに浮かぶ118もの島も含まれ、そのいくつかはヴァポレット(水上バス)で周遊できるようになっているのです。

まずはガラスで有名なムラーノ島へ。その昔ヴェネチア共和国では、このガラス製法を門外不出とするため、職人たちを保護すると称して島に半ば幽閉し、莫大な富を独占したそうです。華麗なるヴェルサイユ宮殿の「鑑の間」も、このムラーノから連れ出された職人が作ったとか。栄光の時代は遠い昔、今は完全に観光地と化したこのムラーノ島。2.3のギャラリーとガラス工房での実演を見ただけで、ここを後にすることにしました。

ヴァポレットに乗って、次はブラーノ島へ。この島の家々は、外壁がカラフルな色で塗り分けられているのが印象的ですが、これは漁から戻った船が、霧の中でも迷わず自宅にたどり着くためだとか。そしてこの島は「メルレット」という、漁の網から派生した繊細なレース編みで知られるところ。95歳のおばあさんの実演には目を瞠りました。裸眼で針に糸を通し、台紙に描かれた複雑な模様を、見事な手つきで編み進めていきます。「空中編み」と呼ばれるこの伝統工芸、今では後継者が殆どなく、彼女が最後の職人の一人だとか。また材料となる、麻で綯われた超細のメルレット用の糸も廃番となり、今ある在庫だけでこの工芸は姿を消すことになるそうです。島の土産店に並んだ、このメルレットを模した安価な中国製のレース編みに、時代の流れを感じさせられました。

ラグーナを巡るヴァポレットからは、サン・ミケーレ島にあるチミテッロ(墓地)の外観が眺められます。以前夫がヴェネチア本島に滞在していた時のこと。サンティッシマ・ジョバンニ・エ・パオロ広場に面した滞在先の眼前には、壮麗なゴシック教会がそびえ、すぐ下の水路では頻繁にゴンドラが行き交い、ヴェネチア情緒満点だと悦に入っていたら、実はこのゴンドラ、近くにある病院の死体安置所から、サン・ミケーレ島に死体を運ぶ霊柩車だと聞いて驚いたとか。また友人のヴェネチアーノ、マリオからも、ラグーナの島にまつわるこんな話を聞きました。30年ほど前、ちょっと変わった友人と、ヴァポレットの通らない小さな無人の島に自家用ボートで乗りつけたところ、生い茂る雑草の中に、打ち捨てられた骸骨がゴロゴロころがっていて、「その友人はおもむろに頭蓋骨を拾い上げ、なんとそれを灰皿として使ったんだよ。」どういう経緯があって、そこがしゃれこうべの2011oct pic1.jpg島になったのか、今ではそれも藪の中ですが、何ともグロテスクな芝居がかった話。でもそんな、ちょっとホラーな逸話が不思議としっくりくるのもヴェネチアならではのこと。

リド島に差し掛かった時、私はヴィスコンティによって映画化された「ヴェニスに死す」を思い出していました。リド島はこの作品の舞台。美少年タジオに魅せられた初老の作曲家アッシェンバッハが、着飾り、髪を黒く染め、粉白粉を塗り、厚化粧まで施して、タジオの姿を求め、街を彷徨う。ラスト、疫病に冒され瀕死の彼は、海辺ではしゃぐタジオを眺めながら死ぬのですが、その涙で厚化粧が醜く剥げ落ちるシーンが私には衝撃的で、美少年の輝くばかりの美貌と相まって、退廃の、耽美の世界が具現された、まだ見ぬヴェネチアという迷宮への妄想が、膨らんだのでした。

Date: 2011/09/08 - 08:22:08

<サルデーニャ・要塞都市アルゲーロ>

564.jpg夫の仕事に事寄せて、この8月、サルデーニャのアルゲーロに滞在しました。ミラノのリナーテ空港からアルゲーロ空港まで1時間余り。この地は12世紀、ジェノバ人によって建設された後、スペインのカタロニア人とアラゴン人によって征服された歴史を持つことから、スペイン文化の影響を色濃く残し、他のサルデーニャの都市とは一線を画する特異な土地柄として知られたところ。歴史的中心街は城壁に囲まれた要塞都市で、ゴシック・カタロニア様式の建物や、カタロニア語の街の表記などから、イタリアというよりもスペインのカタロニア地方のような、濃厚で荒削りな印象です。

到着後私たちは、ヨットで滞在中のミラノの友人達と合流するため、ポルト・コンテという地域に向かいました。この地域は、特異な植物や絶滅寸前の動物が生息する場所として、海岸保護地域に指定されている州立公園があり、海の美しさは折り紙つき。この周辺の海をヨットで周遊しようというのです。絶景を誇るカッポ・カッチャ(カッチャ岬)へのクルージングは、壮大なパノラマです。広い水平線をはるか遠くに臨み、洞窟や鍾乳洞への入り口を眺めながら、海鳥が巣をつくる雄大な切り立った岸壁を見上げる。ヨットを留めて素潜りすると、水はクリスタルのように澄み、魚群や海藻、場所によっては巨大な貝や蛸が眼前に迫る。潮風に吹かれる海洋時間は、日常と切り離された別次元の世界に生きるようでした。

6日間のポルト・コンテ滞在後、アルゲーロ市内に移動してからは、午前中だけ車でビーチを巡りました。80kmと長い海岸線には砂浜と岩場が交互に続き、メインスポットには名前がついています。例えばポルト・フェーロ。入り江にできた遠浅の海は、広々とした真っ白な砂浜が延々と続き、目を瞠る美しさ。あまりの快適さに翌日また出向くと、今度は風が吹き荒れ大時化状態。凪と時化のあまりに違う顔に驚きました。またその少し北にあるアルジェンティエラは、その昔盛況だった銀山と廃坑が砂浜に迫り、今も変わらぬ自然と、無人の空虚な廃坑とのコントラストが、不思議な悲しさを醸し出す場所。それぞれの場所が、それぞれの特徴を持って訪れる人を魅了するのでした。

内地は砂丘の中、松やユーカリ、アロエやサボテンが生い茂る、サルデーニャらしいワイルドな風景が延々と続きます。ユーカリの木については興味深い話を聞きました。その昔のイタリアの、酷暑と湿地故にマラリアに悩まされた地域に、ムッソリーニがオーストラリアからユーカリを持ち込んで撲滅させたとか。ユーカリが地中の水を吸い上げ、防風林となって、マラリアを駆逐する役目を果たしたのだそうです。

「学校で習ったから是非」という娘のリクエストで、先史時代の巨大建造物ヌラーゲも訪問しました。これはサルデーニャ特有の遺跡で、砂岩を積み上げて作った塔のような居住地です。現在は島に7000~8000ほど残っており、考古学的にも貴重な遺産として、ユネスコの世界遺産に選定されているものもあるそうです。

今回夫が仕事をした劇場では、サルデーニャ出身の役者に「マンムットーネス」という名の仮面を見せてもらいました。サルデーニャ最古の伝統芸能で使われる、木製の漆黒のマスクのイメージは、サルデーニャ島の記憶に眠る手付かずのワイルドな自然、そして古代の謎そのもの。文化的統治される前の、土着的な島の精霊を呼び起こす荒ぶる儀式のシンボルに、この島の元始の姿を垣間見たような気がしました。

Date: 2011/08/16 - 12:37:09

<ミラノ・中華料理事情>

DSC00851.JPG長く西洋に暮らしていると、和食は自宅で日常いただくにしても、たまにはアジアの味が恋しくなるものです。ロンドン、パリなど、ヨーロッパの大都市では、美味しいと評判の中華料理店に、折を見て立ち寄ることが旅の定番になっている私達。イタリアを旅する時も、豊穣のイタリア料理に食傷気味になったら、どんな小さな街にも必ずある中華料理店でちょっと息抜きをする。たとえ特別美味しいものでなくとも、何だかほっとする瞬間です。

ミラノのセンピョーネ公園の北東にある中華街では、多くの中国人が本土の生活をそのまま移動させたかのような「華僑生活」を営んでいます。一時滞在がそのほとんどの日本人と違って、彼らはこの地に逞しく根付いて、揺るぎなき中国人社会を築き、本国の発展ともシンクロしながら、着々と力をつけているようです。この地域の公立学校の生徒の半数以上は中国人で、イタリア人よりも勤勉なので成績もよく、学校の平均レヴェルを上げているとか。エスニック食材店や漢方薬局、衣料品や電化製品などの激安店が軒を連ね、中華街らしい街の景観を呈しつつ、メイン通りのパオロ・サルピ通りは近年綺麗に整備され、昨年からは歩行者天国になるなど、東洋人はじめアラブ人、インド人、フィリピン人、南米人など雑多な異邦人が街を行き交い、他のミラノとは一線を画す、活気溢れるスポットとなっています。

近年の和食の流行に乗って、ミラノでも多くの中華料理店が寿司屋に鞍替えしましたが、中華街にはまだ沢山の中華料理店が存在します。ミラノの街中の中華料理の味は、イタリア人の口に適うようアレンジされたものが多く、洗練された日本の中華料理になじんだ私達日本人の舌には大味すぎて、正直な所今一つ。しかし一軒、ミラノで働く中国人を相手にしている、小さな庶民的なトラットリア(食堂)だけは、気に入って時々利用しています。イタリアの華僑は、上海に近い海沿いの地域である温州出身者が多いそうですが、この店も温州人の作る温州料理。海鮮料理が得意で、鶏足の皮や舌の和え物、巻貝の醤油炒め、鴨の燻製、生の蟹や蝦蛄の甘酢がけ、生筍など、中国ならではの食材を使った珍しいメニューも美味しい。また海鮮スープに入った手打ちの温麺もさっぱりとした味わいで、この店を訪れる日本人が好んで食するとか。家族経営のこの店、厨房はお父さん、オーダーを聞くのはお母さんと息子1人、娘2人。朝の11時から夜中12時まで、年中無休。20人も入ればいっぱいの店内には、いつも中国のTV放送が流れ、時折新聞売りが中国の新聞を売りに店内を巡回したりと、さながら中国本土のよう。私達が通い始めた十数年前には、まだ小学生だった上の娘さんが店を手伝う様を可愛らしく感じていたものですが、その彼女、当時娘が使っていた、子供用の携帯のお箸とスプーン・フォークに興味津々でした。というのは、この店で食事する中国人の子供たちは子供だからと特別扱いはされず、たとえ2,3歳のごく幼い子でさえ、長くて先の丸い大人用の中華箸を器用に用い、大人と同じメニューを大人同様豪快に食べるから。いやはや元気でエネルギッシュな子供たち。あらかじめ食べやすいものだけを取り分けられ、(過)保護されることの多い日本人の子供と違い、なるほどこれは逞しく大らかに育つはずだと、納得したものでした。

Date: 2011/07/08 - 09:49:50

<プーリア州・南イタリアの休日>

2011jul写真1.jpg 「海に一緒に行かない?」友人のラウラからお誘いがありました。行先は、彼女の妹マリーナが、プーリア州に購入した廃屋を修復して作ったヴィッラ(館)で、一足早い夏を楽しもう、という魅力的なもの。娘と訪伊中の妹を伴って、6月半ば、初めてプーリアに足を踏み入れたのでした。

 南イタリアのプーリア州は、長靴型のイタリア国土のかかと部分に位置します。私たちが今回滞在したのは、南部サレント地方、その最南端のレウカ地域にある、モルチャーノという小さな村。ミラノから飛行機で1時間半、州の中央部にあるブリンディジ空港から更に車で南へ2時間余り。現地に向かう車窓から見えるのは、延々と続くオリーブ畑とブドウ畑、それを取り囲む石垣、石を積み上げて作ったトゥルッリ(小さな塔のようなもの)、景色の彼方に時々垣間見える海の輝き・・。点在する村の他には、自然の風景しか目に入らない完璧な田舎、ミラノとは別世界です。

 滞在先は、石を積み上げて作った古い建物をそのまま活かした、風情のあるパラッツォ(館)でした。砂岩がむき出しの室内には窓がほとんどなく、外は太陽が照りつけて恐ろしく暑いのに、内部はひんやりとして意外なほど涼しい。また建物の外壁に作られている外階段は、この地方特有のもの。自宅と近隣との接点にあり、この外階段の下に椅子を持ち出して、近所の人と長々とおしゃべりに明け暮れる人々の様子は、街の風景になっています。「少し前までは、道端でレース編みの機械を編む人も見受けられたのよ。」とラウラ。タイムスリップしたかのような、のどかなプーリア時間の始まりです。

 午前中は近くの海で海水浴。私たちはその日の風向きによって、砂浜や岩場にある海水浴場を選びました。サルデニアやシチリアで体験済みの、いわゆる「有名高級リゾート」とはまた趣の違う、気取らない、地元志向な雰囲気。水は限りなく澄んでいて、ただただ美しい。まだまだ人出の少ない海でしたが、黒く日焼けした地元の子供たちは、切り立った高い崖から飛び込んだリ、潜ってウニやタコを捕ったり。初めは遠巻きに見ていた娘も、その楽しげな様子につられ、彼らに交じって一緒に遊びだし、びっくり。昼食には、名物のモッツァレッラに毎日かぶりつきました。

 遊び疲れた後は、家に戻ってしばしシエスタ(昼寝)。夕方からの近辺探索に備えます。モルチャーノ、パトゥ、サン・グレゴーリオ、プレディーテ・・・近郊の街には、レウカ地方の歴史を伝える貴重な史跡が至る所に残っています。ローマ時代以前の聖母のフレスコの残る礼拝堂や、ミッレ・サッシ(1000個の石を組んで作った太古の不思議な建築物)などが、村の一角やオリーブ畑の中に古色蒼然とたたずみ、どれも珠玉のような美しさ。かつてオリーブの実を潰してオイルを採ったという、中心に穴の開いた大きな円盤石も、街中にシンボルのように置かれ、街の地下に今も残る人工の水路には、その昔搾取したオリーブオイルが、まるで川のように流れていたということも、とても興味深い話でした。

 余力のある時には少し遠出しました。小都市ガリッポリの、出島になった歴史地区では、折りしも聖ルイージのプロチェシオーネ(教会から聖人の彫像を運び出し、街を練り歩く行事)に遭遇し、海とキリスト教を崇拝するこの地方の人々の、今も変わらぬ敬虔さに打たれました。また2010年、世界遺産に登録されたばかりのオットラント、ドゥオモの床一面にびっしり敷き詰められたモザイクは圧巻でした。ギリシャ・ローマ神話、旧約・新約聖書、ゾディアコ(占星術)など、西洋人の世界観の基盤を成すモチーフが、混然一体となって「生命の樹」の枝に散りばめられ、時代や宗教を超えたオーラを放っている。未だ遭遇したことのない、普遍的な美のイメージに目を瞠ったのでした。

 そして忘れてはならないのが、この地方の美食。毎回何十皿も出される、素朴かつ洗練された数々のアンティパスタ。現地で取れる野菜や海産物を使い、素材の味を生かした郷土料理には、飽きることがありませんでした。メインは漁師が捕ったその日の魚をごくシンプルに、たとえばアクア・パッツァでいただく贅沢。出しゃばらない、でも驚くほど料理に適うワイン。「食卓についている時は年をとらない」というイタリアの諺を実感した食事でした。

 イタリア最南端の岬、サンタ・マリア・レウカに立つ灯台の向こうは、ギリシャ、イスラエル、シリア、そしてエジプト。シロッコが吹き付けるこの地は、遠い時代の素朴なイタリア時間の残る「聖地」。 朝日と共に目覚め、トレモンティ(日没)を毎日眺める、束の間の至福体験でした。

Date: 2011/06/06 - 04:17:13

<スカラ座・天井桟敷の人々>

6月写真.JPGある日の夕方、私と娘は家路を急いでいました。観劇前の人々でごった返すスカラ座の前にさしかかり、何気なく今日の演目のロカンディーナ(ポスター)を観ていると「チケット、さしあげますよ。私は用事で観劇できないのです。」と、見知らぬ紳士が話しかけてきました。突然のことに、怪しみながらもしどろもどろしている私に「ガレリア(天井桟敷)ですから、服装は問題ありませんし、代金は支払うには及びません。お嬢さんと楽しんで下さい。」こう言い残し、封筒に入った2枚のチケットを手渡したかと思うと、その紳士はにこやかに人ごみの中に消えていきました。今日のオペラ演目は「トゥーランドット」、指揮はゲルギエフ。降って湧いた幸運とはこのこと。まだ半ば唖然としながら、ともかく劇場に入ろうとすると「このチケットは入り口が違います。スカラ座博物館横の階段からご入場下さい。」とのこと。こうして突然に、親子ガレリア体験が始まったのでした。

私たちの席は4階(日本の5階)。下を覗きこむとかなりの高さで、後方の壁に接した最後列の椅子が我々の指定席でした。オーケストラボックスは見えませんが、舞台正面で前方には柱もなく、観劇しやすそうなポジション。最後列故、立ち上がることもできそう。席に座って開幕を待っていると、何人もの人が私たちの周辺の空席を指さし「ここは空いていますか?」と尋ねます。ガレリアでは一応席は決まっているものの、空いていれば席を移ってもいいとの暗黙の了解があるらしい。周囲の人の服装も階下よりくだけた感じ。市内観光後の観光客らしき人も結構いて、1幕だけでいなくなったり、2幕目から入ってきたりと出入りの激しいこと。優雅でフォーマルな社交の場でもある階下とは、ちょっと趣が違う様子です。

幕間の休憩時間に、前の人が話しかけてきました。「まるでジェット機みたいじゃないの、このアメリカ人のソプラノの声量。メトロポリタンで評判をとったらしいけど。」「ゲルギエフ、この間日本でもトゥーランドットを振ったんでしょ。」結構マニアック。どうやらガレリアには、常連客とおぼしき真正のオペラファンが集い、各々が自分たちの流儀で観劇を楽しんでいるようです。これが噂に聞く「天井桟敷の人々」なのかと、スカラ座のもう1つの「社交界」を垣間見ることができたひと時でした。

今回のトゥーランドット、オペラという声の芸術の醍醐味に加え、中国紫禁城をイメージした豪華絢爛な舞台装置が、左右上下前後にスライドし、奇想天外に形を変えて観るものを飽きさせません。神出鬼没のアクロバットや手品、登場人物が大写しになる不思議な映像も、舞台を盛り上げます。衣裳の艶やかさ、繊細さは言うまでもなく、この美意識の高さがキッチュになりがちな西洋から見た東洋のイメージを、別次元の美しさへと変えている。私達の席からは、残念ながらゲルギエフの指揮ぶりは見えませんでしたが、ドラマチックで流麗なオーケストラの演奏が、舞台の完成度を高めます。幕開きは、舞台の前方で眠っている主人公カラフの後ろで物語が動き出し、最終章、愛の成就の合唱を後ろに、彼はごろりと横になり、また眠りにつく。荘子の説話「胡蝶の夢」を想わせるこの伏線は、今夜の物語全てをカラフの夢の中に封じ込め、また観劇していた我々も同時に一夜の夢を見ていたかのような、不思議な余韻残す印象的な演出。「お話はカラフの夢だったのか、それともカラフの本当の人生だったのか。」観劇後、娘はしばらくこの入子のような感覚の中に入り込み、まさに夢のような一日が終わったのでした。

Date: 2011/05/05 - 02:00:02

<ミラノ・サローネ2011>

kyoko picture.jpg毎年4月になると、ミラノは街自体が「サローネ」一色に。「サローネ」とは、正式名称が「I SALONE MILANO」という、世界に名高い「家具の見本市」のこと。初めての開催から今年で50周年、元々は家具の見本市から始まったこのサローネも、現在は30万人もの人が訪れるほどのイベントへと進化し、もはや単なる家具の展示会を超えて、最新デザインやアート・テクノロジーの紹介など、才能あるデザイナーの登竜門としても、デザイン界を牽引するほどの世界的な祭典に成長しています。

メイン会場になっているのは、ミラノ郊外にあるローフィエラ(新国際見本市会場)という、一つの街にも匹敵するほどの巨大なパビリオンですが、ここはビジネスベースの展示会場で、我々の様な一般の人は「フォーリ・サローネ」といって、ミラノ市内のあちこちに設えられた、場外会場巡りを楽しみます。この頃ではこのフォーリの方が、「本家」を凌ぐほどの人気となっていて、会期中には様々なイベントが催され、土日ともなると家族連れの市民も加わって、多くの人で賑わいます。

フォーリの会場の一つとなっている今年のトリエンナーレ(近代美術館)で、夫が演出したパフォーマンスを、センピョーネ公園に隣接し、緑に囲まれた美術館併設の野外レストランで、食事をしながら楽しみました。サローネに出品されている、アルミで作られたトンボ型やじろべえのようなオブジェを、数人のパフォーマーが竿の先や指の先に留まらせながら身体の動きを見せるというもの。興奮した子供たちが側ではしゃぎまわったりと、野外イベントらしく、明るく寛いだひと時となりました。

最終日には、今最も注目されているフォーリ「トルトーナ地区」へ。ここはもともと、運河沿いの倉庫街だった地区が開発されたところ。スカラ座の製作工房や、安藤忠雄が設計したことでも知られる「アルマーニ・テアトロ」もこの辺りにあって、近頃では建築やデザイン関係の人々が多く住む人気の地区ともなっています。このトルトーナ地区にはキャノンやINAX、アルカンターラなど日本の企業も多数参加していました。今年は直前に日本を襲った震災の影響で、日本からの参加者はかなり減ったと伝えられていますが、出展されていた日本のパビリオンの人気は圧倒的でした。例えば「WONDER―デジタルイメージングの世界」と題された今年のキャノン。注目の映像作品は、通常の平面的な映像の印象を超え、まさに空気のような「体感2011may picture2.jpg」でした。身体全体で音や色を感じ、場面によっては体が宙に浮いているような、時間や空間が喪失したかのような不思議な感覚。設えられた何台もの映像機材から投影される繊細かつ大胆な、驚きに満ちた映像。最新の技術力、イリュージョンに満ちた想像力に、会場の人々から歓声があがっていました。パンフレットにはこう記されています。「...作品のベースに流れるのは自然です。私たちは、日々の生活で起こる様々な営みにおいて、時に悲しみ、時に喜び、時に勇気をもらい、時に祈りを捧げます。人類の進化は日々の生活から湧き出るエネルギーによって生まれます。....」震災を体験した日本人が世界の中で、底力を失っていないこと、可能性が無限に拡がっていることを、ここでも確信しました

 

 

Date: 2011/04/01 - 04:06:54

<2011.3.11>

「東北関東大震災の被災者の皆様に、謹んでお見舞いを申し上げます。

一日も早い復興を切にお祈り申し上げます。」

3月11日、関西の実家から日本の震災を知らせる電話が入りました。すぐさまTVをつけると、テレジョルナーレ(TVニュース)では、目を疑うような凄まじい映像を流していて、私たちは絶句しました。「今、横浜は電話が繋がらない」と聞いてはいたのですが、とりもなおさず横浜の義母に電話したものの、やはり繋がらず、ようやく話ができたのは翌日。こちらの報道の見出しには「Apocalisse」(黙示録)という不吉な言葉が大きく銘打たれて、事の重大さをひしひしと実感したのでした。

イタリア始め様々な国の友人たちからも、私たちにまで続々とお見舞いの言葉が届けられました。「美しい国の無残な姿に、私たちも傷ついた。」「私達が側にいることを忘れないで。」「日本が立ち直ることを、心から祈っている。」同時に、震災直後の日本人の冷静で協力的な行動、非常下でも他の人を思いやり、譲り合い助け合う気高い姿を皆、口を揃えて賞賛していて、私自身も、日本人として美徳を今更ながら思い出し、誇らしく思いました。

イタリア在住の邦人の間でも、様々な情報交換がなされました。イタリアの報道は、センセーショナルに演出された報道が目立ち、特に原子炉については悲観論ばかりが目2011震災.JPG立つので、NHKTBSの災害報道サイトも参照すると、当然ながら外国とは目線が違う。その他の情報も過分にあって、どれが真実かわからない。海外に暮らすと「自分のことは自分で守る。」ということが当たり前になってきますが、玉石混交の報道の波の中で、何を真実と見るか、それは自分で考えなければ、という当たり前のことを痛感しました。

3月20日の日曜日、ミラノの大聖堂ドゥオモでは「被災者に捧げる礼拝」が行われ、在伊邦人が大勢集って祈りを捧げました。カトリックという宗教の枠を超えた祈りにしたいと、祭壇には「平安」と記された書が設置され、日本人の合唱団が「ふるさと」などを歌う中、まずは仏式のお焼香が執り行われました。参列した日本人には前列に席が用意されていて、他の参列者がその後方から、それを見守るようにして式は進んでいきます。ドゥオモのテッタマンツィ枢機卿の説教を、日本語がご堪能なルチアーノ神父が日本語に翻訳されていました。日本人の代表を伴った奉香式の後、レクイエムを捧げ、ミラノ日本総領事が日本人の代表としてご挨拶され、このミサは終わりました。すすり泣きする人も多く見られ、皆が深く傷ついていることが感じ取れました。

「祖国」というものが、苦しんでいる。日本という国を、折に触れて意識することはあっても、祖国というものが自分の心にこれほど深く根付いていたということに驚きました。外地に暮らしていても、これほど動揺するのです。日本の被災地やまだ余震の続く地域では、どれほど不安なことだろう。こちらでも今もなお、日本の放射能報道が連日報じられています。凄まじい試練に見舞われ、心が打ちのめされているにもかかわらず、前を向いて進まなければならない日本。海外に暮らす私に、一体何ができるだろう。イタリアでは日本の報道に加え、リビアの戦状の報道も日に日に増え、シチリアのランペドゥーザ島に、リビア始め、エジプト、チュニジアなど情勢の不安な国から逃げてくる避難民が、島民5000人を超える6200人以上船で押し寄せ、政府はそれに対応しきれず大混乱しています。世界が変わっていく。子供たちにどんな世界が残せるのか。これからの生き方を、毎日自分に問うています。

Date: 2011/03/06 - 04:05:10

世界最大のグランドピアノ

最大のピアノ.JPG ピアノの正式名称をご存知でしょうか?「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」、イタリア語では通称「ピアノフォルテ」。イタリアが発祥地であるこの楽器は、ルネッサンス時代、フィレンツェの文化的パトロンであったメディチ家お抱えの楽器製作者、バルトロメオ・クリストフォリによってその原型が作られたそうです。現在世界のピアノ製造御三家は、「ベーゼンドルファー」「スタインウェイ&サンズ」「ベヒシュタイン」と、いずれもドイツ文化圏で発展してきたもの。日本に暮らしていた頃、「ベーゼンドルファー」を所有する知人の家には、演奏会のために訪日した某有名ピアニストが、しばしばお忍びでこの名器を弾きにお宅を訪問し、私もその生演奏を聴く機会にあずかったことがありましたが、名器での演奏というものは、奏者との相性が合えば、次元の違った演奏を産みだすものなのかと、感じたものでした。

そんなピアノ楽器の世界で、創設は1979年と歴史は浅いにもかかわらず、至高の名器と名高いイタリアの「ファツィオリ」。一台製作するのに約3年、工場では40人の職人が、最先端の技術を採り入れつつも、全行程手作業にこだわり、年間120台生産するだけ、という幻のピアノなのです。例えるなら「フェラーリのピアノ版」といったところでしょうか。このファツィオリの「世界最大のグランドピアノ」の試弾会に招待され、娘と一緒に出かけました。ミラノ中心にあるショールームに並んだグランドピアノは6種類、世界最大のグランドピアノはなんと全長308センチの迫力です。「音が体の中にまで入って来て、その後遠くまで飛んでいく。」とは、演奏した娘の感想。自宅で弾いているアップライトピアノとは全く違う手ごたえを、驚きと共に楽しんでいるようでした。私の感想は「ピントの合った、温かな澄んだ音色。」創設者のパオロ・ファツィオリは「華麗で軽やかな、イタリアオペラのベルカントのような個性ある音」を目指したそうですが、かのブーニンは「芸術的な満足感と喜びで満たされる」と絶賛したとか。音の命運を握るという、弦の振動を増幅する響板には、かのストラデバリも愛用したという、フィエンメ渓谷産の赤トウヒが使われ、このピアノ独自の音色を産むのだそうです。

音の独自性と並んで、私がなるほどイタリアらしいと思ったことは、ピアノ製作への姿勢です。他のメーカーとは一線を画し、独自の技術を開発して、ゼロから作り上げたというところに、典型的なイタリア人気質を感じます。模倣でなくオリジナルを。自分の興味のあることには、爆発的な集中力で、限界なくどこまでも突き進む。芸術家気質と言っていいかもしれません。この愛すべきイタリア人魂に、究極のアルチジャーノ(職人)の技が加わって、分野を問わず、今までにどれほどの「メイド・イン・イタリア」の秀作が生まれたことでしょう。ちなみにこの名器のお値段は、900万から2000万円台。イタリアで産声を上げ、大きく発展を遂げて300余年の後、故郷イタリアで、同国人の情熱と匠の技で、華麗に進化した「メイド・イン・イタリア」の名器は、もはやそれだけで、アルテ(芸術)の域と言えるかもしれません。

Date: 2011/02/03 - 06:52:10

<ミラノ・ピッコロテアトロ>

DSC01101.JPG一月下旬、ミラノの「ピッコロ・テアトロ」(「小さな劇場」の意)の「Benvenuti a picclo(ようこそピッコロへ)」という企画に、娘と共に参加しました。ピッコロ・テアトロとは、1997年に亡くなったイタリアを代表する演出家、ストレーレルの創った劇場で、今回の企画は、この劇場の裏側を探検する、というもの。日本でも、ストレーレルの作品はゴルドーニ「二人の主人を一度に持てば」が既に紹介されていて、コメディア・デ・ラルテ(イタリア仮面即興劇)の、躍動感溢れる美しい舞台が話題になったようですが、この作品だけでは、彼の作品の本当の魅力は、ごく一部しか伝わらないだろうな、というのが私の正直な感想。なぜなら私は他の作品で、忘れがたい「デジャヴ」を体験しているから。チェーホフ「桜の園」の、息をのむような桜花の乱舞のシーン。ブレヒト「セチュアンの善人」の、水を張った舞台の奥から、自転車に乗った人物が静かに現れる幻想的な幕開け。私の観た彼の作品群は、心に眠っている心象風景を呼び覚まされるような、いつかどこかで見た不思議な絵画のような、あまりにも洗練されたものだったからなのです。

まずたどり着いたのは、奥行きのあるクインタ(舞台の袖)。ここには舞台を裏で支えるスタッフはじめ、様々な機材や、入れ替えを待つ大道具、出番待ちの役者達がひしめき合います。イタリアの美意識と職人技の水準の高さがうかがえる衣裳製作の部屋は、オートクチュールの仕立て屋のように、何反もの目にも綾な裂地やボタン、レース、フリンジなどが積まれ、十数台のミシンの横のボディには、作成中の見事な衣装がずらりと勢揃い。公演作品毎にまとめられた膨大なスクラップブックは、登場人物の衣装のスケッチや、使用した裂地などが張り付けられ、それだけでピッコロの公演の華麗な歴史を伺い知れる程、それは美しく見事なものでした。

圧巻だったのは大きな小道具の倉庫です。これまでの舞台で使用された数え切れない程沢山の小道具が、まるでアンティークショップのように綺麗に並べてあり、何とも言えない郷愁のようなものを漂わせています。虚構の中でのみ存在できる小物達が、静かに出番を待っている。どんなに精巧にできていても、その全ては決して実生活では使用されることのないフェイク。しかし芝居の幕が切って落とされるや、その全てが生命を持って息を吹き返し、現実と夢の世界が逆転するその不思議さ。演劇の魔力の始まりです。

劇場という仮初の世界には、不可能はありません。海を創り、風を起こし、花を咲かせ、過去を覗き、未来に飛び、自在に時間を操り、四季を歴史を創り出す。音を使い、光を操り、色を駆使して、いつの間にか見る人を、異次元の世界に連れ出DSC01103.JPGす。でもそれは、所詮人工の世界。それでも人は、この虚の世界を突き抜けたところに、人生の真実を垣間見る瞬間を体験することもある。舞台の向こうから、自分自身の人生を逆さまに眺め直す、非日常体験。完結した世界を生み出すこの特殊な空間は、最後には一掃されて何もない「箱」に戻ります。この静まり返った空間には、過去も未来も生も死も悲劇も喜劇も何もない。そこにはただ、暗闇と静寂がぽっかりと拡がるばかり。そして新たな公演で命を吹き込まれた劇場には、また一瞬の夢の世界が現れる。この絶え間ない循環に、束の間を生きる私たち自身の人生が、どこかで永遠に繫がっている.... ストレーレルの夢と美意識が引き継がれた空間の中を、こんな感慨に浸りながら、旅したひと時でした。

Date: 2011/01/22 - 03:46:09

<シェークスピアの国>

  シェークスピア 劇場.JPGイギリスで演劇三昧を。先日「オテロ」を演出した夫の提案で、年末はロンドンに滞在しました。この国の辞書には、聖書よりもシェークスピア語録の引用の方が多いとか。英語を学び始めた娘も、「シェークスピアの国」初体験に興味津々です。

まずは娘のお目当て「ロイヤル・バレエ」から。英国王室がパトロンであり、世界三大バレエ団の一つとして名高いこのバレエ団は、伝統的に演劇性の高い作品をレパートリーに多く持つことで知られています。演技力に優れたダンサーが任命される「プリンシパル・キャラクター・アーティスト」という階級はこのバレエ団独自のもので、この階級を最高位の「プリンシパル」と同列に位置付けているほど。さすがシェークスピアの国。今回の演目は「ピーター・ラビットと仲間たち」。ベアトリクス・ポターが描いた動物キャラクターそのままの着ぐるみを着たダンサーが、バレエ・テクニックを駆使して、馴染み深いピーター・ラビットの絵本の世界を忠実に表現する、ロイヤル・バレエ団の定番作品です。この日出演したソロのダンサーの内、何と4人が日本人。テクニックの高いダンスで、観客も皆拍手喝采でした。演目のせいか、スカラ座やパリ・オペラ座に比べ、ロイヤル・バレエの観客はとてもカジュアル。この国ではバレエというジャンルが、格調は高いながらも気取りがなく、演者と観客の間の距離が近い、いい意味で大衆的な印象でした。

続いて観劇したのは「ロイヤル・シェークスピア・カンパニー」の「ロミオとジュリエット」。中世と現代が交錯するような演出だということで、シェークスピアの醍醐味を期待していたのですが、正直なところ期待はずれ。唸るようなシーンもなく、また役者に魅力が感じられず残念でした。

今回ロンドンで観劇した舞台で秀逸だったのは、ナショナル・シアターがプロデュースした「WAR HORSE」。作品に登場する馬は、革や木、メタルなどで作られた大きな模型のような人形で、3人の人形師(?)が操ります。人形の規模は違いますが、日本の文楽のような感じでしょうか。本物の馬の動きや習性を緻密に分析し、人形師は溶け込んだかのように一体化して再現。馬の嘶きまでも繊細に表現して、馬の性格や内面までもが透けて見えるほど。役者の質も高く、じっくりと時間をかけて熟成させただろう極上の舞台でした。演劇人故、常には辛口の批評家たる主人も絶賛。馬好きの娘は、身を乗り出して魅入っていました。原作はマイケル・モルプルゴの児童小説「WAR HORSE」で、スピルバーグが映画化を決めているのだとか。娘は帰り道の書店で、この本の原書を購入したのでした。

今回の滞在では、イギリスの観客の層の厚さに改めて感心しました。鑑賞眼は厳しいけれど、演劇に対する愛情がある。滔々と流れる演劇の伝統に誇りを持っている。オリジナル通りに再建されたシェークスピアの劇場「グローブ座」見学の折、シェークスピアの生きていた時代は、観客も公演中に食べたり歌ったり野次ったりと、登場人物の一員のごとくふるまい、劇場はまるでスポーツ観戦のごとく熱気あふれたものだったと聞きました。なるほど。演劇が人々の生活に溶け込んでいるはずだ。当時から引き継がれる活き活きとした劇場の雰囲気が、今のロンドンの劇場に重なりました。